asppe_dr’s blog

私のアスペ的体験を開き直るための記録です。-yahoo blog閉鎖に伴い移転しました-

自己破壊衝動

夜はいかん。

忙しい夜は特にいかん。

酒の入った夜はなおさらいかん。

誰にも教えず、誰にも見られず、ただ自分の本性を現したいがために作ったはずのブログでも、どこか誰かに見られている気がして、人目を気にしたことしか書けない。

小学生の夏休み、同級生や上級生と一緒にプールに行って、みんな平気で裸になって着替えるのを横目に、カーテンレールの錆びた仕切りの向こうでパンツを脱いだら、上級生が開けてきて、オレのちんこを見ようとしてきた。

性的に抑圧とまでは言えないけど、そんな雰囲気の家庭で育ったオレは、人にちんこを見せるなんてとんでもないことと思うと同時に、水泳の授業でフルチンで着替える同級生を羨望の眼差しで眺めていた。

化繊のカーテンを股間に押し当てて必死に抵抗するオレは、どこかで無理矢理ひん剥かれて、みんなにちんこを見られることを期待していた。自分からではなくやむを得ず。

けど上級生はほどほどで諦めてオレを解放した。オレはカーテンの向こうで人がガヤガヤしているのを聞きながら、全裸で硬くなったちんこをおっ立てて、水着を履いた。

こんな話誰にも言ったことないし言えない。

けど、やらなアカンことが多すぎて回らない夜に酒を飲んだら、あのとき自分の全裸姿を自ら晒してちんこを振り回して見せつけたらどうなっただろうなどと考えて、まるで自分の痴態を晒すように、こんな話を書きたくなる。

だじゃれの楽しみ

オリバー・サックス医師の著書「妻を帽子とまちがえた男」に、素数を言い交わして遊ぶ自閉症の双子の話が出てくる。
それと一緒かどうかは分からないけど、その楽しさは分かる気がする。
私の場合、それは言葉の響に現れる。

AとBの言葉の響が似ているのを発見すると、訳もなく楽しい気持ちになるのだ。
たとえば、こないだ知人に「だんぢりまんじゅう」をもらったのだが、
その箱に書かれた「だんぢり」という文字を見て「まんじり」という言葉が頭に浮かび、
「(私は)まんじりもせずだんぢりを観ていた」などという文章を考えて、内心ニヤニヤする。
二つの異なる意味の似た言葉が一つの文に違和感なく収まると、得も言えぬおかしさを感じるのだ。

それを口に出すと、今の時代は「おやじギャグ」と言われる。
昔はただの「しゃれ」や「だじゃれ」と言われたのに、いつの頃からだろうおやじの専売特許となったのは。
ただのだじゃれをおやじギャグと呼ぶのは、私は間違った語用ではないかと思っているのだが、
それはまたの機会に。

(2018/9/21)

目を見て話す

目を見て話すのが苦手。
不誠実、自信がない、失礼……
いろいろと言われるのはわかっている
仕事では仕事モードに切り替えるから、"きちんと"目を見て話せる
なんや、やればできるやん
でも体力の代償は結構大きい
外来が終わると脳の疲れを抑えられない
最後の患者を見送った途端に意識が飛ぶように眠ってしまう
その数時間、他の人よりも一日が短くなってしまう
それもセットで選んだ仕事
嫌じゃないけど、許してもらいたい

(2017/2/4)

どうでもいいけど

この店の店員さんの女性が全員美人。嬉しくなる。

中学生の頃はこんなこと、絶対に言えなかった。人の価値を顔で決めつけるなんて絶対に認められなかった。というか唾棄すべき忌まわしい価値観だと思ってた。
けどそれならテレビコマーシャルも電車の吊り広告も、お洒落な文房具もワインのエチケットも全部意味がない。そう考えると人の関係の入口としてや評価の要素の一つとして、認められるようになった。

いくら美人でも、偉そばっててマグロだったらできないと思うし、反対に普通な外見でも相性が良ければまた次もと思うだろう。もし失明したら、外見ってどれ程の意味を持つのだろう。
結局入口やキャッチフレーズとしては重要だし、その後の重みとしては物足りない。それが美しさというものなのだろうか。

(2016/4/15)

暑い

今、東京の居酒屋で呑んでます。

カウンターで一人呑んでたら、おかみさんというかママさんというかの人から、接客で話しかけられた。
この程度別に珍しいことではないし、普通に受け答えできるんだけど、どんどん体が熱くなってきて、汗が出てきた。
自覚はないけど緊張してるんだろうな。失礼のないように目を見て話して、喋り過ぎず、喋らなさ過ぎず、そつなくこなす。さすがに長く生きてるとできるようになったのを、成長したなと自分を誉めてあげたい。けど苦手。

だけどそろそろ帰ろうかと思っていたのに、もう一杯頼んでしまった。断れないとかではなく、苦手なのに相手してもらえるのが嬉しいんだろう。

苦手と嫌いは別物だって、今さらながら気付かされた。

(2016/4/15)

ぞっとするHALF

昔に何度も聞いて、ぞっとした曲。
簡単に言うと、前世で結ばれず、現世でも結ばれず、来世を誓うという曲で、
来世で結ばれる保証は何もないという人を歌っている。
単なる孤独を歌うだけでなく、手塚治虫火の鳥のように、輪廻転生の過去から未来までを見通して”孤独”や”後悔”という
世界観が、ものすごく恐ろしかった。
だからこそ惹かれた。同じ様に孤独を感じている人がいる、というのは勝手な思い込みだけど、少なくともそんな想像をすることでどれほど救われたか。

随分前から、歌に飲み込まれるのではなく、鑑賞することができるようになった…と思う。
それで、彼女の曲には一曲の歌で小説一本書けそうなくらいの世界観があると改めて気付かされた。

かなり昔に、さだまさしさんが自分の書いているものを、「歌詞」ではなく「歌詩」でありたいと言っていたけど、
私の中では彼と彼女がそれに値する。
他の人の歌はあまり知らないだけだけど、歌詞が聞き取れない歌は苦手だ。

(2015/12/2)

区別と自分

中島みゆきさんの「ひまわり”SUNWARD”」という曲が好き。
多分知ってる人少ないと思うけど。

彼女の曲はいろいろ分類しようと思ったらできるけど、その一つに「理不尽な区別に屈しない」歌とでも言えそうなものがあると思う。
冒頭の曲と同じアルバムに入っている「アンテナの街」も、有名な「ファイト!」も、「EAST ASIA」もいろいろと。

思うに子供の頃からなんか人と違う自覚があって、生き辛さを感じていて、だけど自分の存在を認めたくて足掻いてきたからかなと思う。
区別はあってもいいけど、自分は自分であって、属性で判断されたくない。
ましてや属性で優劣を判断したくないしされたくもない。
そんな気持ちがあるから、差別なんかの問題に子供の頃から関心を持っていたんだろうな。

(2015/11/29)