asppe_dr’s blog

私のアスペ的体験を開き直るための記録です。-yahoo blog閉鎖に伴い移転しました-

許せないけど責められない

 先日、新聞で公立学校教員の異動の一覧を見た。
こういうものに目が止まると、興味も無いくせに出身校を探してしまうのが人間の性というものか。
 細かな文字を指でなぞりながら、目でたどると、見覚えのある無愛想な字面で指が止まった。
その男性教師は私の小学校5、6年時の担任だった。それが、市内の小学校の教頭になっていた。
ホームベースのような顔に爬虫類の目をした、髭の剃り跡が濃いその教師を浮かべながら、ああ、そうか。年齢からするともう教頭か校長になっててもいいんだな。などと考えていた。


 私は小さな頃から、大人はもちろん同年代とでも人と会うことに怯えながら生きてきた。
間違いを指摘されるんじゃないか、怒られるんじゃないかと。
私にとって、怒られることは自分の存在を否定されることと同じであった。
自分の全てが間違いで、人と対等な積もりで生きていること自体が恥ずべきだということがばれてしまうことであった。
だから、私は必死で抵抗した。強がって見せた。
友達と取っ組み合いの喧嘩で床を転がりながらも、見ているのはギャラリーの反応だった。

 そんな私が、5年生になった最初の頃に、全員が見ている教室の前で殴られたのだからたまったもんじゃない。きっかけは生意気な口をきいたというだけのことである。
クラス全体が盛り上がっている時に、大声で名前を怒鳴られ、一瞬で空気が凍った。
一斉に注がれる視線を感じ、教室の前に連れ出される一歩一歩が泥沼の感触だった。
小学生が調子に乗って教師にタメ口をきくことが、これほどの屈辱に値するということが理解できなかった。伏せた視線が、床板の節穴に焦点を合わせようと行ったり来たりしていた。突然左の頬で何かが破裂したような衝撃を感じた。
初め、何が起こったのか分からなかったが、続いてカーッと熱くなって来た頃には、平手で叩かれたのだと理解した。理由も分からないままに。
何時間にも感じた陵辱の後、開放された私の存在は油に汚れた床の綿ぼこりにも値しなかった。

 次の日から私の使命は気配を消すこととなった。
授業中も決して目立たず、休み時間になる度に廊下の突き当たりの階段の下でチャイムを待つのが日課になった。
友人も作らず、心を凍らせ、何事にも感情を動かさない石になるのが目標となった。
そうして1年経つ頃には、表情を無くした小学生が出来上がったのだった。
「暗い」と言われる度に、心の中でしめしめとほくそ笑んでいた。

 そうして、小学校に何の未練も残さずに意気揚々と中学に進学した後、待ち構えていたのは笑い方が分からないという現実であった。感情を動かすエネルギーが枯渇しているのを感じた。
何度も何度も、クラスに溶け込もうと挑戦するのだけれど、その度に疲れ、憔悴し、諦めるのだった。
やがて体育倉庫の裏が、私の定位置となった。一人でいることが心地よかった。このまま世界がブラックホールに飲み込まれればいいのにと思った。
私が心を開放してやるには、それから6年待たなければならなかった。

 その小学教師を私は決して許してはならないと思い続けてきた。彼なりの事情があり、彼だけの責任ではないにせよ、一人の小学生の8年間を凍結させるきっかけを作った彼を許すことは、世の中の私と同じような人の存在を否定することだと思ってきた。


 新聞でその教師の名前を見た時、頭に浮かんだのは、もしも今会ったとしたら私はなんと言うだろうということだった。激しく責め立てることが出来るだろうか。皮肉にまみれた言葉の鞭を浴びせることが出来るだろうか・・・
どうも出来そうにない。
齢を重ね、私の頬を張った手にも無数の皺が刻まれ、おそらく私の苦しみなど片鱗さえも気付かずに過ごしてきたであろう25年間。
今、私がこの教師を面前で罵倒したとしても、私の気持ちはほんの一滴も染みることはないだろう。透明な窓ガラスを、水彩絵の具で一生懸命塗りつぶそうとするかのように。

 そんなことを考えて、久しぶりにふわふわとした日を過ごした。

*長くなりましたが、取り留めのない独り言をここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

(2007/4/22)