asppe_dr’s blog

私のアスペ的体験を開き直るための記録です。-yahoo blog閉鎖に伴い移転しました-

怒られるのが怖い

 大切な人に怒られるほどこたえるものはないね。自分が悪いのかどうかに関わらず、頭が真っ白になって、全身の皮膚が恐怖で岩になり、そのまま死ぬまで無生物になっていたいような気分になってしまうよ。

 相手も大変で、苛々して、つい嫌なことを口走ってしまうことくらい、頭では理解できるのだけれど。それを受け止めて支えてやりたい自分もいるのだけれど。どうしてか、すぐに、「もうだめ」と思ってしまう。誰だって、ちょっとした喧嘩をしたりして分かり合えるようになるってことも知ってるし、そんな仲に憧れさえ抱くけど、私はどうもそうはいかないみたい。ほんの些細ないざこざでさえも、全身の細胞が機能停止を起こしてしまう。客観的に見て、相手は相当我慢して頑張ってくれているのに。
 だけど、「オレってダメ」とは言いたくないな。思っていても口に出したくない。言ってしまえば楽だけど甘え過ぎ。「ダメだから許して」「ダメだから期待しないで」「ダメだから助けて」
 口には出さなくても、私の存在に沁み広がっていく。まだ諦めたくはない。オレだって一人前になれるはずだから。けど、しばらくの間落ち込ませておいて欲しいな。

 私は物心ついた頃から、怒られることを異常なくらいに恐れていた。怒られるということは即自分の存在価値を否定されるような意味を持つものであった。人に怒られる際、相手と自分のどちらに理があるかなどと考えられるようになったのは随分大人になってからだ。怒られるということは、自分が悪しき存在で、他の人間と対等に喜んだり楽しんだりする資格のない者だということが、考える余地のない真実として私を拘束するのである。
 まだ、いつもビクビク過ごしていたら幸せだったかもしれない。いつでも怒られる恐怖に備えていれば、いざという時のショックがマシだったかもしれない。しかし、困ったことに私は中途半端に子供らしく、楽しいことがあればはしゃいだり面白いものがあれば遊んだりもした。だから余計に怒られた時との落差は大きく、何の前触れもなく100tのコンクリートの塊が上空から落ちてきて一瞬で頭から足の先まで押しつぶされてしまったような思考停止の状態になるのだ。

 ある年の子供の日に、ソフトボール大会があった。まだお昼の時間には早かったが、試合の合間に母親が敷いてくれていたビニールシートに座り、持って来てくれた柏餅に恐る恐るかぶりついた。餡の甘味が口に広がり幸せな気分になった頃に、いつも意地悪を言ってくる先輩が通りかかり、「まだご飯の時間違うのに!」と責めるような目で言い捨てていった。
 私は右手に持った自分の歯の形に欠けている白い餅を持て余して、石膏像のように身じろぎもできなかった。母親は優しく、「また、お昼に食べようね」と言ってくれた。救われたような気がして嬉しかった。だが同時に、やっぱり今食べてはいけなかったんだという思いが確信に変わっていった。そうして、自分はいけないことをした罪深き人間なんだと。それに、母が即座にそんな気遣いの言葉をかけるほど私の弱さがばれているかと思うと、やはり自分は存在してはいけない人間なんだとの思いがじわじわと広がっていった。

 仕事でなら、人の背景も含めて理不尽な発言や態度も受け入れられる。そういうものだと分かっているからではなく、自分の役割に徹しているからだ。だけど、プライベートになった途端、その辛さは全部我が身に降りかかってくる。気持ちを切り替えて仕事と同じ気構えでいけば多分辛くないだろう。だけど、相手を尊重したいからそれができない。その方がお互いに楽だろうと分かっていても、相手は患者じゃないから。私にとって、大切な人だから受け入れられない。けど、全部自分に対する拒否にすり変わってしまう。

 今、書いてて、子供時代はいつも一つは悩み事があったなあと改めて思った。特に小学校の頃は、悩み事のない時がないというのを自覚していた。ほとんどは、怒られるのが怖くて自分から作り出してしまった悩み事だった。そのことはまたいずれ。

 最後まで読んでくれてありがとう。

2007/8/6