asppe_dr’s blog

私のアスペ的体験を開き直るための記録です。-yahoo blog閉鎖に伴い移転しました-

怒りに食あたり

オレは人の怒りにさらされると、かなりダメージを受けるみたい。小学校高学年の担任に叩かれた時に気づいたんだと思うが、人に怒られると、怒られたことによりも怒らせたことに傷ついてしまう子供だった。そしてそれは今でも続いている。

多分幼い頃から、自分の感じ方が特殊で人に受け入れられないというのをどこかで分かっていたんだろう。だから人より自分が正しいと思うことができなかったんだと思う。それで自分が怒られると、その責任の所在が相手ではなく自分にあるというのが疑いもない前提になっていて、怒られたではなく怒らせたになっていたんだろうね。

そんなことに気付かなければ、ただの気弱な人間でいられたんだろうけど、幸か不幸か気付いてしまったばかりに相手に対する腹立ちと自己嫌悪と臆病にまみれてしまって、余計に辛くなってしまう。

それは今でも変わらず、身近で大切な人にほど、怒りを投げかけられたら思考が固まってしまい反論も謝罪もできずに黙り込んでしまう。たとえその態度が余計に相手を怒らせることになると分かっていてもね。数日経ってやっと気持ちを表す言葉が見つかっても、もうその頃には相手には過去の出来事になってしまっているから今さら話すこともできない。

オレにしてみたらなんでそんな簡単に? と思うけど、ほとんどの人にとってみたら何年も引きずるオレこそが面倒くさい奴なんだろうな。

(2015/9/6)

権利意識がもたらしたもの

こないだ外国に行って気付いたこと。

”日本にいたら腹が立つような些細なことに腹が立たない”

言葉が通じず思い通りに意志を伝えられないというのもあるけど、例えば道を歩いていて押しのけられて前に出られた程度の嫌なことがあったとして、日本だったら「失礼な奴だな」と思って、でも何も言わずに半日くらいモヤモヤするんだろうけど、その国では「ああ、こういう文化なんかな」とか「失礼な奴もいるけど、よくわからん土地でトラブるのも厄介だし、この程度いいか」とか思えて、あんまり腹も立たなかった。

思えば外国の影響で国民性が変わってきているのか、私が何十年もかけて大人になって変わってきているのか分からないけど、自分含め周りの人々が権利意識を高めて逆に損しているような気がする。
もちろん人としていろいろな権利はあるけど、権利を主張するには責任もあるはずだし、それ以上に権利を主張することはそれ以上のことは得られないことを認めるということの裏返しなんだと思う。

そんな社会では限定された自己主張のために何かを失ってしまいそうだし、権利の応酬で対立、口論、訴訟なんて道筋が用意されているようで、権利の確立が人生の最重要命題の様な人にはいいけど、もっとのんびりしたい人には世知辛い世の中だと思ってしまう。

今回の体験を通して、適当に流すところと譲れないところを自分で意識してのんびり過ごすことの良さを学んだ気がする。

(2015/9/4)

梗概が書けない

5年に1回は更新しようと努力しているブログです。
忙しいのと、あんまり自分のことを「知って、知って~」と思えないのとで気まぐれにしか書き込めていませんが、それなりに自己満足になってます。

私、実は小説を書くことに関心があって。というか、何本かは書いたことがあって、だけど到底小説家と言えるレベルに達していないということも分かっている状態です。

高校生最後の現国の授業で、「何を書いてもいい」という授業があったんですよ。そのときに思っていたこと-もう忘れたけど、世の中の人間の思考パターンに対する不満だとか反論だとか……面倒くさい高校生ですよね-を瞬きもせずに書いた体験が衝撃的でね。それまで国語って苦手でした。論説ならまだいいけど、小説なんかを持ち出して、「この時の誰々の気持ちは以下のどれか」なんて問題ナンセンスですよね。私、基本的に小説家が世に送り出してしまった作品について、作者があれこれ解説をつけるというのは好きでは無いんです。いや解説じゃないですね。「こう読んでくれ」という要望的なもののことです。出版するという時点で、自分の手の届かないところに行ってしまうのだから、それに注文をつけるなら作品のなかで言っておけよ、という感じです。ましてや第三者が唯一絶対的な解釈を強制するなんて! いや、傲慢なのは分かってるんですけど。

いやいや、話が拡散してしまいましたね。これも私の特性ということでご容赦を。

それで、これまではどうでもいいことということで、私、小説を書きたいと思って実際書いてもいるんですが、たとえば百枚とか三百枚とかの作品を仕上げようと思ったら、やっぱり梗概って必要なのかなと思って。そうしないと細部にこだわって、いつまでも同じとこを書き込んで前に進まないんです。
それで、とりあえず表現とか描写とかは置いといて、大雑把な話の展開を書こうとするんですが、何回頑張っても途中から細部の描写にのめり込んでしまうんですね。どうしたものか……

小説家って、こだわり強い人も多いと思うんですが、何百枚とか千枚を超えるような作品とかって、よく書けるなと感心します。やっぱり、細部にこだわりつつも全体を俯瞰できる能力が不可欠なんでしょうね。

(2013/7/28)

校則の思い出

通称「温泉旅館」
近所にある大型飲食ビルのこと。
なぜそんな名前で呼ばれるかというと、いつも昭和の歌を流しているからだ。
店で流しているのではなく外に向けて大音量で、まるで子どもの頃、夕暮れ時に毎日聞こえていた夕焼小焼のメロディーのように。
昨日、昼飯を買いに行こうと歩いていると、流れてくるメロディーがいやに耳についた。
なんとなく聴いたことがあるような気がするけども、なんの歌かわからない。
しばらくしてさわりの部分にさしかかった。
「激しい雨が俺を洗う 激しい風が俺を運ぶ……」
ああ。題名も歌手も知らないけど、遠い昔に聴いたことがある。割と好きな曲だった気がする。
 
夜になってからネットで検索してみると、THE MODSの「激しい雨が」という曲らしい。
芸能音痴のオレには珍しく、そのグループは名前くらいは知っている。
中学生の頃に再放送で観ていたドラマ、「中卒・東大一直線 もう高校はいらない!」の主題歌を歌っていたからだ。
「バラッドをお前に」という曲で、当時とても気に入ってよく口ずさんでいた。
といってもレコードを買うほどの小遣いも熱意もなく、他の曲は全然知らなかったのだが。
 
その頃、オレは校則に疑問を抱いていて、かといっておおっぴらに反抗する勇気もなく、悶々とした日々を過ごしていた。
「髪は眉毛にかからない」、「制服はマル適マークのついたものだけ」
そういった規則の一つひとつが、何の意味を持つのか理解できなかった。
規則がすべて嫌なのではなく、規則のための規則に我慢がならなかった。妥当な理由があっての規則には、むしろ好意的に従いたいと思う中学生だったと思う。だけど、なぜ必要なのかがわからない規則に従うのは、自分自身を否定して、貶める行為だという信念を強く持っていたし、それが正しいことだと思っていた。
髪が眉毛にかかってはいけないという校則を撤回するように血書を書こうと左手の薬指に剃刀をあてた夜もあった。
だけど、結局は臆病な子どもで、指を切ることも大手を振って校則を破ることもできなかった。
ほそぼそと伸ばした前髪を、整髪料も持っていなかったのでニベアを擦り込んで上げて学校へ行き、休み時間にすれ違った教師に髪を引っ張られ、「これ長すぎるぞ」と言われては言い返すこともできずにヘラヘラと笑って、家に帰ってから己の不甲斐なさに独り泣き泣き、鋏を握って髪を切るような子どもだったのだ。
そんな具合だったから、入学時から制服着用を拒否したドラマの主人公に尊敬と憧れを抱いていた。
もちろんオレは高校進学を拒否して大検を受ける勇気もなかった。
 
誰彼の曲だから好きというのではなく、いいなと思った曲が実は好きな歌手のものだったというのはとてもインパクトがある。
まあ、THE MODSに関しては多分この二曲しか知らないんだけど。
古い曲は古い記憶を呼び覚ます。
今日も温泉旅館は人々に昔を思い出させるのだろう。

裏が読めなくてよかった

最近発見した。小さい子どもの言動に、オレは滅多に腹が立たない。
よく、ご飯を食べてくれない子どもにキレたり、泣きやまない子どもに怒鳴ったりという親がいるという話を聞くけど、そういうことがまったくと言っていいほどない。
これまでは単にのんきなだけだと思っていたけど、今日ふと思いついた。
言葉の裏を読むのが苦手だからではないのか?
 
つまりこういうこと。
キレる親の思考というのは、たとえば、
「子どもがご飯を食べない」→「わたしの作った食事が気に入らない」
「泣きやまない」→「泣きやませられない自分は無能」
といった感じで、目の前のできごとからそれ以上のことを(無意識に)深読みしてしまって、感情を揺さぶられているのでは?
 
その点、オレは人の言葉をその通り受け取ってしまう傾向があるので、
「子どもがご飯を食べない」→「へー、子どもってそういうものなんだ」
「泣きやまない」→「へー、子どもってそういうものなんだ」
と、特別に考えようとしない限りは今起こっていることをそのまま受け取ってしまうので、困ることはあっても腹が立つことがない。
 
いわゆる言葉の裏が読めないというのも、こういうところでは役に立つのかなと思ったのですが、どうでしょう?

眠れない

あー、眠くならない。
いつもは眠すぎて失敗ばっかりなんだけど、何ヵ月かに1回くらい朝まで眠れないことがあるんだよ。
今日も体は疲れているし、明日も朝早いんだけど、目が冴えてしまって・・・
 
せっかくだから溜まった仕事しようと思ってPCに向かったら、ついこんなところに書き込みを。
ほんと、仕事が溜まると関係のないことしてしまう。
そんでいつも睡眠時間削って仕事してしまう。
小学生の頃から何にも変わってないよなぁ。
 
そら小説も書きたくなるわな。
あらすじ書き始めたら、2,3枚書いただけで細かいとこばっかり書き込んでしまって全然進まない。
ってか、そもそもあらすじになってないし。
まあ、医学雑誌の原稿でも4倍くらい書いて削るってことがほとんどだから、書きたいだけ書いて減らしたらいいのかな。
 
あー、来週締め切りの原稿と講義の用意が手につかない。

締め切りがいとおしい・・・

 仕事が進まないんです。
 手につかないと言うわけではなくて、例えば書類を書き始めたとすると単語の正確な意味が気になってその言葉を調べ始めて、更に調べた内容の言葉が気になって・・・という連鎖反応にはまってしまって、気がつくと腕立て伏せをしてたりするんです。
 しかも、自分で「ああ、今こんなことしてる時間ないのになぁ」と分かりながらやってるもんだから、たち悪いですよね。追い詰められたらどうにかできるんですよ。学会の発表スライドを会場のトイレの中で仕上げたり、講演の原稿を電車に乗る3分前に仕上げたり。そんな感じで、締め切りがあればなんとか集中してできるんです。けど、あと3日あるなどと思うと、だらだらと他の事に気を取られて進まない。一晩かけて書いた原稿がたったの一行ってこともざらです。

 関係ないけど、これを書き始めるときにも、「カテゴリ」って「カテゴリー」じゃないのかなって気になって英和辞典引っ張り出して、やっぱり「category」、「ry」じゃないか、「リー」じゃないのかって、気になって気になって・・・
 しかもこの話はどこに入るんだろう、心理系の話かなと思って、じゃあ人文だろうと思ったら心理はなくて。結局その他にしかオレの居場所はないんだろうなー、なんて思いに耽って、ああ、そうじゃなくて何か書こうと思ってたんだと思い直してやっと書いてるところ。

 医学関係の本か、関係のない小説か、書いてみたいという欲求もあるんだけど、2、3枚書いたらつい他に気が散って戻れなくなるんだよね。学生時代に書いてた頃は締め切りのある機関誌だったんで、なんとか小説をひとつふたつ完結させることができたよな。締め切り前日に酒を浴びながら、「オレ、命削って書いてる」ってナルシシズムに浸りながら書いてたっけ。
 そういや今も酒飲んで調子出てきた。単なる酒好きと思ってたけど、飲むと覚醒度が落ちて余計なことに気が散らないようになるから気に入ってるのかな。

 って言いながらまた話が飛んでるね。いつもこんな感じです。どうでもいいけど、みんなブログ上手に書くよね。数行で止めてさ。オレ、筆不精のくせに書き出したらしばらく止まらないから、こんな長い文章になってしまって、ほとんどの人は読む気なくすよね。分かってるけど書いてるオレは文章マスターベーション中毒ってとこかな。いやいや、女の子口説いてホテルに誘いたいんだけど、上手くできずに笑顔で別れて家帰ってからマスかいてる情けない男?いやいや、下品な話になってゴメンなさい。今日、「フルメタルジャケット」のDVD観たからかな、下品な言葉が頭に浮かぶね。酔ったはずみに出てきたとはいえ、抑制のないオレ自信の言葉だから、これもらしさということで、そのまま載せとくよ。

 全部読んでくれた人がいたら、ありがとう。こんなおかしな文章だけど、決して独り言なんかじゃなくて、誰かとつながっていたくて、読んでくれると嬉しいんだよ。

(2010/4/9)